· 

想像のその先は

今回ご紹介するのは、11月12日のお散歩第二弾での出来事です。

この日はいつものフィールドを離れ、お散歩に出かけました。フィールド以外の場所を散策し遊ぶことで、自分たちが暮らす「奈良」への「馴染み度」を、もっと上げて欲しいと考えて僕が道程を組みました。
往復5kmほどの距離があったのですが、そこを歩む一歩一歩に、秋という季節ならではの紅葉した植物や、ようちえんのフィールドでは出会えない生き物、道行く人との出会いがあり、子どもたちはその出会いの一つ一つに、非常にユニークな物語を刻んでくれます。

 

残念ながら、ここでその全てを紹介することが出来ないのですが、僕が特に「普段の保育の保育の場面ではあまり見られない」ように感じた子どもたちの様子を一つ取り上げたいとおもいます。そんな「森のようちえんウィズ・ナチュラ」の保育の一場面を、エピソードを通して覗いて、感じていただきたいと思います。

桜井三輪山の裾根から、天理石上を経て、奈良へと至る「山の辺の道」と呼ばれる日本最古の道が今日の散歩の舞台です。

その古道の一部である大神神社から檜原神社を少し超えた青垣国定公園付近へ向かうのが今日の道程となります。

大神神社の一ノ鳥居前が今日の集合場所でした。普段のようちえんとは少し違った趣を感じます。

「神社は神様のおうちみたいなところやで」と話しながらお辞儀をして鳥居をくぐります。僕のその姿を見た子どもたちは「おじゃまします」とぺこっとお辞儀をして鳥居をくぐって参道を歩みはじめました。なんとも愛らしい様子に、僕たちを含めほかの参拝者たちもクスッと笑みを浮かべています。子どもたちなりに、「神様のおうち」が腑に落ちたように感じます。

妙に端を歩く僕が気になるようで、ちらちらと子どもたちが目を向けました。僕は「神様は真ん中通るから端っこ歩いてるんよ」と説明しました。「そうなんやー!」と頷きながらSちゃんとMちゃんが参道の真ん中に目をやりました。

 

まるで、子どもたちの目にはそこを歩く姿がみえているようにも感じられました。だから僕は「神様通ってはるの見える?」と悪戯っぽく声をかけました。子どもたちからは「みえる~!」「みえへん~!」「神様って透明なんやろー?」色々な答えが返ってきました。

 

特に、参道を上がり、社を目にしたYくんがこぼした「神さまのおうち、ちっちゃいな」という言葉が、僕にはとても面白く感じました。「え?大っきいやろ~。俺の家の100倍くらい大きいで。Yくんのおうちよりも大きいやろ?」と僕の反応にも、Yくんは首を傾げながら、「う~ん、Yくんのおうちよりも大きいけど…」と少し煮え切らない返事をした後、上を見上げました。この時の僕には、何が納得いかないのかはわかりませんでした。

このような子どもたちの答えに反映されるように、思いの馳せ方、ともすると目にする景色は多様で、それが僕の目にはとても新鮮に映りました。

ここでは普段の保育ではあまり意識することのない「神様」について子どもたちがそれぞれの感性でもって、想いを巡らせる様子をエピソードとして取り上げました。

一般的に日本は様々な宗教観のごった煮のようなものであると言われています。

お正月は神社に初詣に行き、夏にはお盆休みをとり、冬にはクリスマスを祝う方も多いのではないかと思います。特に意識せずとも、宗教由来の行事が生活の中には深く浸透しています。

しかしながら、なかなか「神様」を意識するような場面は訪れません。

もちろん、それは普段の保育の場面でも同様で、「神様」そのものに意識を向けるようなことはあまりありません。だからこそ、このエピソードの中で、子どもたちがどのような「神様」に想いを馳せたのかを、とても興味深く感じたのです。

とは言っても、奈良はほかの地方に比べると、遙か昔に都があったがために、古い神社や寺院、古墳などの古の宗教観に触れる機会の多い場所です。

フィールドのすぐ近くにも神社はありますし、山の中で過ごしていても原始的なアニミズム的神性を森や川などの「自然環境」に見ているように感じられる場面は見受けられます。

ですから、保育の場面であっても、子どもたちが知らず知らずの間に、独自の宗教観に出会っている可能性は大いにあります。

事実、スウェーデンに「森のムッレ」という自然教育の一つの形がありますが、このムッレは妖精の名前であり、森の中に「不思議な存在」の息吹を感じることは万国に見られるようです。

ただ、僕がここで言いたいのは、もちろん「宗教的な思想」についてではなく肌身で感じられる「不思議な感覚」を想像の中に具現化するような、「豊かな想像力」についてなのです。

僕はこの場面に子どもたちの頭の中で立ち上がる像が結像するのを見た気がしました。もう少し言うと、SちゃんとMちゃんがふと参道の中央に目をやったのは、まさにその想像力が結像したものだと感じたわけです。もちろん彼女たちの目の先には、何もありません。少なくとも目には見えないわけです。しかし、彼女たちはそこに何かの存在を感じようとしていました。その彼女たちの様子から、目には見えない、頭の中に膨らむ「神様」がそこにあるように、その時の僕は感じたのです。

もう一つ、Yくんとのやりとりにも注目しましょう。Yくんは「神様のおうち、ちっちゃいなぁ」と言っています。このやりとりの際の僕にはわからなかったのですが、後から考えると、Yくんの感じた、また想像した「神様」は「大きかった」のだと考えられます。だからこど、彼からすると人間には大きく感じられる社が「小さく」感じられ、また想像の中の「大きな神様」に想いを馳せ、上を見上げたのだろうと思います。

ここでの考察は、子どもたちの感性による「神様」の存在を手掛かりに子どもたちの想像力の豊かさに目を向けたものです。

森の中での保育では、枝や石といった様々なものに自分たちの想像したものをのせて遊びこみます。つまり、「想像すること」を抜きにするとなかなか遊びこむことは困難になるわけです。ここで述べてきた事例は「神様」の姿を感じるという目には見えない「空想の中の世界」においても、この想像性の一端が及んだと解釈できるのです。このエピソード一つとっても、「森の中で保育する」ということの一端が示されているといえるのではないでしょうか。

 

保育スタッフ のぶくん


森のようちえんウィズ・ナチュラ季刊誌サステナme協賛企業様